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最高裁判所第二小法廷 昭和56年(オ)1110号 判決

上告人

安鐘永

上告人

朴玉伊

右両名訴訟代理人

片山主水

被上告人

千代田火災海上保険株式会社

右代表者

川村忠男

右訴訟代理人

田邨正義

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人らの負担とする。

理由

上告代理人片山主水の上告理由について

所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当であり、右事実関係のもとにおいて、本件事故当時の訴外碓井自動車株式会社による本件普通乗用自動車の運行支配が間接的、潜在的、抽象的であるのに対して、訴外亡安正道及び訴外青木一浩は共同運行供用者であり、しかも右両名による運行支配は、はるかに直接的、顕在的、具体的であるから、訴外亡安正道は自動車損害賠償保障法三条にいう「他人」であることを主張しえないとしたうえ、同人が右「他人」である旨の主張を前提とする同法一六条の規定に基づく本訴請求を棄却した原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違法はなく、所論引用の判例の趣旨に反するところもない。論旨は、ひつきよう、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は独自の見解に基づいて原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(鹽野宜慶 栗本一夫 木下忠良 宮﨑梧一 大橋進)

上告代理人片山主水の上告理由

一、本件上告理由は、原審が判決に影響を与えること明らかな自動車損害賠償保障法(以下自賠法という)第三条の解釈ならびにその適用を誤つたという点につきる。

(1) 原審は、訴外碓井自動車株式会社(以下訴外会社という)及び訴外亡安正道(以下正道という)がともに本件乗用者の運行供用者であるが故に、自賠法第三条の「他人」とは、自己のために自動車を運行の用に供する者及び当該自動車の運転者を除くそれ以外の者をいうのであるから、正道は、他人には該当しないと解釈するのである。

しかしながら、右解釈は、自賠法第三条の「他人」の解釈を誤つたものである。

(一) 自賠法第三条本文は、「自己のために自動車を運行の用に供する者は、その運行によつて他人の生命又は身体を害したときは、これによつて生じた損害を賠償する責に任ずる。」と規定する。

右規定は「運行供用者」とその運行により生命又は身体を害された「他人(被害者)」とは別人格であることを意味し、又「運行供用者」と「他人」は互いに相対関係にあることを表わしている。

従つて、被害者が唯一の「運行供用者」であつて、別人格たる運行供用者がいないときは、そもそも自賠法第三条とは関係のない事態である。

同じことであるが、別人格たる被害者がいないときも同様である。

反対に、被害者が存在して別人格たる「運行供用者」が存在すれば、その被害者は「運行供用者」にとつて「他人」である。

以上のことは、自賠法第三条から自明である。

(二) しかるに、原審は冒頭に述べたように、訴外会社を「運行供用者」であると認定しておきながら、別人格である正道を「他人」ではないというのである。解釈を誤つたことは明らかである(参考、判例タイムズ三八七号一一九頁、一二〇頁、一二一頁)

(三) 原審は、なお、傍論ながら、運行支配が、訴外会社及び正道を比較して、後者が前者より直接的、顕在的、具体的であると評価しているが、これは最高裁判例を念頭においたものであろうが、それにしても「他人」を判断するについて、前記「他人とは運行供用者及び運転者を除くそれ以外の者」とする解釈だけに頼つて、本件請求を排斥したのは、最高裁昭和五〇年一一月四日第三小法廷判決にもとるのである。

(四) さて、そこで、右判決であるが、前記(一)に述べたごとく、「運行供用者」でありながら、しかも別人格ではない被害者であるとき、すなわち、「運行供用者」と「被害者」が同一人物であるときは、そもそも「運行供用者」であるかどうか問題とすること自体、条文どおり「他人」ではないのであるから、意味不明であるが「被害者」に対して別人格の「運行供用者」が存在すれば、すなわち「運行供用者」に対する「他人」が存在するのである。

ところが、右の場合に、まぎれもなく他の「運行供用者」にとつて「他人」であるにもかかわらず、その「他人」からの請求を排除するために、ことさら「他人」を限定して解釈したのが、右最高裁判決である。

問題の本質を見誤り、いたずらに法解釈を振りかざし、問題を複雑にし、法解釈の技術論からいうも、まことに不得さくな対処の仕方であつたと言わなければならないのである。

ここは単純、明解に、「他人」であることを認めたうえで、その請求を排除するための別の観点からの理論構成をとるべきであつたのである。

そうでなければ、第一審のごとく、どちらが具体的であり、顕在的であるか等を問題にし、思案のすえ、「他人」であるとしながらなお、“全部”「他人」であることの不合理さを考慮し、衡平の理念に照らすという二重の思考不経済をあえてしなければならないのである。

思考不経済ばかりではない。第一審は「他人」であると判断し、なお、衡平の理念により八割相当を排除するのである。これはとりもなおさず「他人」でないことを認め、全部の請求を排除するとすれば、結論として不合理となることをさけた便法に過ぎないのではないか。

二割の賠償を認めるのが相当であるために、最高裁判決に従がい具体性、顕在性、直接性から言えば、ありもしない「他人」性をことさら認めたうえで、八割を削除するという操作も起りえないではない。

直裁簡明に「他人性」を認めたうえで、例えば衡平の理念により結論として認めうる金額をのみ認めれば、少なくとも、いま問題とする最高裁判決には優れる対処の仕方である。

この判決は変更されるべきである。

(2) 次に、原審は、具体的な事実の判断につき、経験法則の適用を誤りひいて自賠法第三条の適用を誤つたものである。

(一) 原審は、理由中二の3(正道の意識状態について)と題し、「正道は前示のとおりシンナー遊びをしていたことから正常な判断が出来る状態ではなく……」と認定しながら、「青木が本件自動車を動かすことを認識できたものと認められるのにかかわらず、これを制止しようとした形跡はな」く、「両者の間に以心伝心による意思の疎通は十分可能であつたと考えられ」るので、結局「正道は青木と意を通じ青木が本件乗用車を盗み出し運転を開始することを容認していたものと推認される」というのである。

しかしながら、何故に「正常な判断ができる状態ではないのに」また、「ビニール袋を持つてグターとしていた」のにかかわらず、「自らドアを開けて助手席に乗り込んだことと、青木が運転操作に移る際差し出したシンナー入りビニール袋を手に取り預つたこと」を考えると「青木が本件乗用車を動かすことを認識できたものと認められ」るのであろうか。

正常な判断ができなければ、正道は青木の動作に反射的に従うだけである。

青木が乗れば乗り、差し出せば預かり、まさに正常な判断ができないのである。

制止しようとした形跡がないのは当然である。

仮りに認識程度のことは出来たとしても、何故に、親密な関係であれば、正常な判断ができなくても以心伝心、意思の疎通が十分可能で、運転開始を容認していたと推認できるのであろうか。

原審は、制止するという規範的意思の問題、容認したという規範的態度の問題と認識とを彼此混同しているのである。

(二) 従つて、「運行支配」の点についても、誤つた前提から出発しているので、その判断を誤つている。

(三) 原審は幾多の間接事実を認定し、その間接事実から右「認容」(窃取の点まで認容したか、単に運転をのみ認容したかは、原審はさだかではない)を認定し、「認容」があつたが故に、他の要件とともに「運行供用者」であるというのである。

この「認容」の点は原審においては重大である。

この重大であるにもかかわらず、原審は前記のごとく認識と混同しているのである。

この混同は、判決に影響を及ぼすこと明らかな経験法則適用の誤である。

二、上告理由になお付加すれば、原審は理由不備の違法がある。

(1) 原審は、もつぱら自賠法第三条の問題に終始し、訴外会社の従業員及び社長がエンジンキーをつけたままドアに施錠することなくこれを公道上に駐車したことが青木の本件事故に至る運転を誘発したことを認定しながら、この管理義務違反の行為と正道の被害について民法七〇九条の一般の不法行為の成否を一顧だにせず、本件請求を全部排除しているが、主要事実が認定されている以上、理由不備の違法があるものである。

(2) 原審は、自動車の右管理不十分な点を「運行供用者」に結びつけているが、管理不十分という規範的要素は、本件では正道の「制止」及び「認容」と対比させ、「他人」性を判断するに際しての要素とすべきであつたと考えられるのである。原審がこの「制止」「認容」を重視したと同様、訴外会社の「管理不十分」であつたという事実は本件結論を出す上に重要な事実である。

その重大な事実である「管理不十分」なる行為が本件事故の原因若しくは誘因になつているのであるから、一般の不法行為を認めたうえで、両者の事故に対する起因力を比較し、過失相殺等をすることが十二分に検討されなければならないのである。

この点、原審は、判決主文に対して理由不備の違法があるものである。

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